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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 今思う明日 4

食欲の秋なのか

 秋は本を読んで論理や倫理や理性や感性や思想哲学や・・・あらゆる知識をかみ砕き身につけて心を養う事なのか。それを食欲の秋というのか。とするならば私には秋を語るすべはない。食欲は腹をくちくする、読書は精神の肥やしを培うと解釈すれば私は多分に偏食をしたことになる。私は同義語として理解しようとしている。
 私は人生勉強をおろそかにしさぼってきた。今思うと若い頃買った本を片っ端から読んでいれば身につけていればと言う後悔がある。そうしていたら老いて心をひからびさせないですんでいたであろう。生きていく指針が揺れることもなかったであろう。生活が貧しかったという境遇を弁明は出来ない。貧しさの上にも精神的な生活をしていれば咲いたはずである。それが小さな一輪の草花にしてもだ。若かった頃はそれに気づかなかった。野辺にけなげに咲く小さな花を見ようとはしなかった。星を眺めて願い事をするというロマンはなかった。そんな私は何を見、読んだのだろうか。忘れる為の読書をし身につく読書生活をしていなかったと言える。その頃の私は本を沢山買い込んで書く為の資料としたのだ。殆どが積ん読であった。著者は読み手が心の肥やしになることを望んでいたのを忘れ必要なところだけを横着に切り取っていたのだ。書き手は書く時間より読む時間をより多くとり愉しい読書をしているものだと言うことを知ったのは最近見たテレビで小説家の浅田次郎さんが言っていた。私は書いている時に読むと影響されるからと言う理由で読まなかった。読書に楽しさを見いだしていなかったと言うことなのか。最近、南木佳士さんの随筆、小説を全作むさぼるようにして読んだのだが。そんな経験は若い頃はなかった。若い頃は楽しむというより苦しんで読んだものだ。読んでなかったらみんなから遅れると言うものだった。私は読書の本来の意味を忘れて研究書を読むように小説、戯曲を読んでいたのだ。ロシア文学も登場人物の名前の長さにうんざりしながら苦痛の中で読んだ。ラシーヌの戯曲の一人の台詞の長さにまだ続くのかという気持ちで読んだものだ。シェクスピアーの戯曲をあまり読まなかったもの比喩の多さに辟易しながらであったからだ。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などは字面をおっただけで、菊池寛は愉しく読んだ。チエホフの戯曲には心奪われて読んだが。要するに好きな作家の本は丁寧に読んだが私にとってどうでも言い作家のものは斜めに読んだことになる。その斜め読みは心に何も残してはくれなかった。読んだという記憶だけが残っているだけだ。っていたであろうと思う。
 遅いか、まだまだこれからと言えるか。今持っているもので生きるしかない。小さな器に盛る料理は幾ら豪勢にしてもそれだけの見栄えしかしない。仕方がない、そのように生きた結果なのだから。
 私はくる者は拒まず去る人は引き留めはしなかった。人の成長に手を貸して自らが成長する路を選んできた。そのことは間違っているとは言えまい。だが、その人のために語った事でその人は傷つき前から消えた人もいる。悪い癖で直接的に話す性格がある。言葉をオブラードに包むことをしなかった。本当のことを言うことがその人の為になると思ったからだが、そのことで傷ついた人がいたことに反省をしなくてはならないのか。私だったらこうする、このように考えた方がいいと思うとついつい言ってしまう。言葉はむずかしいものだ。相手を考えて咀嚼した言葉で伝えなくてはならなかったものが、相手の心にひっかかり思いだけが伝わり誤解を招くことも多々あった。あの頃は酷いことを言ったなーと思うこともある。若気の至りだとは言えない。
 先輩から勧められサルトル、ジイド、カミュ、の作品を読んだ。いわゆる実存主義の作品群をである。哲学はデカンショを読んだ。デカルト、カント、ショーペンハウエルである。それらはいかほどの私の人間形成に役立ったというのだろう。ただ読んだだけですべて忘れている。その頃の私は読んで忘れることの大切さを実践していたと言える。普通人より少しだけ読んだ本が多かっただけである。私は読んでえたものを覚えることが苦手で、人の様にすらすらと引用はできない。感銘を受けたものですら1行も覚えておらず誰々がこう言った、書いていると言うことは出来ない。だが、忘れていても体の中に少しは残っていて書く上で役立っていることは否めない。
 今も読むのだがそのままを引用することは出来ない。直ぐに忘れるという特質がある。本を読んでもそれを血肉にしないで体外へ出していると言うことなのだ。
 それでは精神を養うことは出来ない。が、時折これを私が書いたのかと言う驚きがあることは何かの蓄積が存在しているのかも知れない。それを降臨と言うことにしているが。
 つまり降臨は読書の産物である気がしている。
 秋、食べるように本を読む、それは腹にたまるのではなく心の肥やしになっているものだと感じる。
 本当の食欲の秋を感じなかった事を今更のように後悔をする。今になってもっと真剣に本を読み生きていたらと言う反省が沸々と心をさいなむのだ。だが、斜め読みも熟読したものもすっかり忘れているが濾過されて心の中に残っている、それを食欲の記憶という事にしている。何をしても何かが残るものらしい。
 老いてよりその感は増しているが・・・。
 何でも美味しく食べられる幸せを感謝しなくてはいけないと・・・。

あの頃は輝いていたか・・・。


 開幕五分前に予ベルが鳴り客殿の明かりが落ちた。今まで賑やかであった事が嘘のように静かになった。観客は幕が上がるのを今か今かと待つ長い時間を共有するのだ。
 本ベルが鳴り幕が静かに上がっていく。舞台に明かりが生まれたその瞬間観客のうおーと言う歓声ともため息とも付かないどよめきが起こった。
 昭和五十四年十一月九日、東京都目黒区祐天寺目黒公会堂でのことであった。
 舞台の上には江戸情緒を残した夜の倉敷の町並を背景に倉敷焼きの店が現れ観客の心に語りかけるように息づいていた。
 
目黒公会堂はドリフターズの「八時だよ全員集合」をライブで全国放送している舞台だった。

「今年はどうしても日本青年大会に出たいのや。この倉敷を舞台にそこに住む人たちの心を台本にして欲しいのや」
 倉敷で青年演劇をしている土倉氏から電話がかかって来たのは六月の半ば午前一時頃だった。それまでにも頼まれていたのだが同人誌に書いたものや成人式に書いた物を焼き回して渡し岡山県青年祭に出場していたのだ。今年は本当にやる気らしいと省三は思った。九月に県予選となるとうかうかしておられない、構想を練って書き始めていていい時期だ。
「突然言われても困るな。今は懸賞に出す原稿をかいているのよ」
「今を逃したらこれから出るチャンスはないのや。役者も裏方もそろうとる今年しかないのや」
 必死に土倉氏は語っていた。
「そんなら・・・約束は出来ないよ、その準備はしてみるわ」
「そうか頼むで・・・今月の終わりまでに欲しいのや」
「なんやて、終わりまでにかいな」
「たのむで」
 土倉氏はそう言って電話を切った。
 大変なことになったと省三は思った。懸賞小説を書いたあとに倉敷演劇祭り用に二幕の台本にかかるつもりでいたのだった。その台本の取材も終わり構想も箱書きも出来ていて後はかくだけになっていた。
「くらしき、くらしき」と何度もつぶやいて頭をかいた。倉敷物は数年前に「波倉の町」という一幕物を書いて公演していた。
 青年祭の演劇は、五分間で舞台装置を組み立て四〇分で演じ五分で撤去する五〇分間の勝負なのである。実質原稿用紙二五枚のものなのだ。沢山の登場人物を登場させ倉敷を語らせなくてはならない。これはなかなかしんどい書き物になりそうだと言うことは分かっていた。
 土倉氏に役者が何人いるのかを聞いた。青年祭には三〇歳までという制限があった。役者の技量を考えて書く必要があった。
 倉敷の祭りの夜。場面はすぐに決まった。その夜に何を起こせばいいのかそれが問題だった。大きすぎても小さすぎても四〇分という器に盛れないというのも問題なのだった。朝の倉敷、夜の倉敷、昼の喧噪な倉敷を見て回った。外の原稿は書かなかった。書く時間はなかった。倉敷の町に立って秋の祭りの夜を想像した。観光地だが倉敷は殆どの店が夜の七時にはしめる。暗くなった商店街を歩いているとに明かりが路に漏れる店があった。土産物店、それも陶器を売る店だった。人通りが絶えた静かな商店街に明かりを落としているその店には何か郷愁が漂っていた。店をのぞくと五〇歳くらいの男が黙々と轆轤を蹴り土をひねっていた。その姿にしばし飲み込まれた。この陶芸家の家庭は生活はどうなのだろう。どんどん引き込まれ家人を亡くし一人娘は東京の大学へと想像は膨らんでいった。倉敷織りをする母娘を絡ませ、弟子を、娘の友達を登場させていた。土をひねる男の背は重い荷物が背負われているように見えた。それはすべての登場人物の思いなのだと理解した。ここまでまとまれば後はテーマを決め構成をして箱書きをし書き始めればいいのだ。初稿は一日で出来上がった。
「干潮」・・・。波倉の町と言われていた倉敷、蔵屋敷の石垣を満潮の時には波が洗ったという。果たして干潮の時はどうであったか・・・それを一つの家族に喩えたのだった。
 読み直しながら校正に二日間かけた。

 逢魔が時に祭り囃子が舞台に流れ素隠居の爺婆がひょうきんに踊って行く人を団扇でなでる、そうして健康と幸運を授けるのだ。
 倉敷焼きの店先では提灯が明かりをともし陶芸家が轆轤を蹴りながら土をひねっている。男の背から哀愁が滲み出ている。

「おい、小川君、そこは背中で心情を語って欲しい」
 

      風化
                     今田  東
 
 あの頃何を考えていたのだろう。
 
 今、六十八になり毎日時間をもて余していきていると若かった頃のことが沸々と思い返されるようになった。真っ赤に大きく照りが焼いてあたりの雲を焼きながら沈む夕日が朝日と為って上ってくることは決まってはいないという不安と同じように、若かった頃の思い出は過ぎ去ったこととはいえさざ波を心の中に呼び覚ますのに十分だった。家族八人が一つの屋根の下で生活をし、多少の軋轢はあるにしても平穏に暮らしている。六十歳を機にものを書くのをやめのんびりとゆったりと一日一日を過ごしている、それは怠惰な生活という言葉に置き換えることができそうである。そんな日々を生きていながら世間に対しては片意地張って生きている自分が悲しいのだ。昔の姿をどこかで保とうとする性に、どこまで行っても枯れない精神をみるのだが、それは言い換えれば終点にたどり着けない、つまり悟りを開くことができないということなのだと最近思う様になった。そんな中、振り返ることが多くなっている。出会った人たちの一人一人の人生を考えるのだ。あの人はどのように生きたのか、今は・・・。と・・・。悲しい性なのか、と考えるがその人たちのことは一行の文章にもしていないのだ。書いてないのではなく書けなかったのかもしれない。書くと自分のことも書かなくてはならなくなり自分で自分の首を絞めることになると言うことを考えていたのかもしれない。だからといって人様に対してその人の人生を変えるようなことをしたというのではないが。過去を明らかにするということは今の立場を決して良くはしないと思ったのだろうか。貧しいけれど無邪気な少年時代と、中風の母との生活の中で人生計画を立てて生きた青年期、そのために多少は自分勝手に生きたことも、そのことで人に迷惑をかけたという後ろめたさがあったのだが、それくらいは許されていいだろうと思うのだ。打算というその利己的な生き方を世間はよしとしなかったのも確かであるが、将来に対してこうなりたい、こうありたいと努力するのは向上心とあいまって見過ごしてもらえるものではないのか。それは自分を肯定する考えだが、人は否定していたのかも知れないのだ。結果だけ出して後は自由に自分勝手に生きた、本を読み原稿用紙に文字を埋めていた青春期、決して明るいとはいえないものであったが熱く生きた記憶があるのだ。そんな中で出会った人たちのことを今はっきりと振り返り思い出すのだ。
 
 高校一年の夏。アルバイトというものを初めてした。学費を稼ぐという目的だった。校内の掲示板にたくさんのアルバイト先の求人用紙が貼られていた。学校はアルバイトを推奨していた。百五十円の文字に心が動いてそこに決めた。決めたといっても雇ってくれるかどうかわからなかったが、とにかく面接に行った。小太りの四十くらいの女の人と定年退職をした校長上がりの人が明日からきてくれと言った。その頃定年と言えば公務員は五十歳であった。今から思えばその人は七十に見えたのだ。もう一人他校の学生がきていた。
このアルバイトが三年間の高校生活で一年間以上することに為ろうとはそのとき考えてはいなかった。日曜祝祭日、冬、春、夏の休み、期末試験がすむと月行へは行かずにアルバイトをして授業料と小遣いを稼いだのだった。このような生活をしていて勉強ができるはずもなかった。一年もするとその道にプロのように仕事ができた。商品の値段の殆どを覚えた。アルバイト先はデパートにおもちゃを卸す商店だった。注文の品に値札をつけ伝票を持ってデパートへ持って行く配達の仕事だった。
茶箱を大きくしたような箱に商品を詰め自転車の荷台に乗せて行くのだが重くて転ぶこともたびたびあった。幼稚園の前で引っ繰り返り散らばったおもちゃを園児が拾って遊ぶというようなこともあった。
 アルバイトが本業か学生が本分かかわからない生活であった。学校では授業後卓球部に入っていてピン球を打っていた。
 二股の生活、その頃のことは生涯で一番楽しいものであった。

記憶の薄れいく中で

 風は雲の働きで起こるように、波が風によって起こるように、人間は自らの意志をもって起こし行動する。そのことを知ったのはたくさんの時が過ぎてからだ。
 
 この町にきてからもう四十年になろうとしている。結婚してから家人のふるさとへ来たのだ。家人は交通事故の後遺症で雨の降る前は額に十円玉くらいの赤い斑点が出来て頭痛がした。それを心配した義父母が隣に土地を用意しそこに家を建てろと言った。家人の慰謝料で家を建て一部を喫茶店にした。県道沿いのその喫茶店は四十年が過ぎたいまも続いている。お好み焼き、画廊、ラーメン、トンカツ、カラオケ、と喫茶をやりながら出し物を変えて続いている。今ではコミュニティハウスとしてお年寄りの憩いの場となっている。
 この町に来た頃は南の海に面したところにあるコンビナートの空は何十本もの高い煙突から五十メートル以上の炎が真っ赤に吹き上がり夜を昼間に変えていた。そこでは夜でも明かりがなくても新聞が読めたという。そんな環境を地元の人が文句も言わず黙っていたのは賠償金を貰っていたからだった。だが、少し離れた我が家からは南の空が燃えているその明かりが窓を染めて眠られない日が続いた。まるで火事場の隣にいる様な錯覚に陥るのだった。
 家人の実家は農業を営み、葡萄にい草に麦に米を栽培していた。コンビナートの煤煙に最初にやられたのはい草であった。煤煙が朝露となってい草を覆い先枯れをもたらした。人間を喘息へ導くほどの公害なのだからい草など一発でやられた。その頃、工場に隣接していた呼松町では梅に桃が育たなくなったという被害が出た。煤煙を海風が運んだのだ。呼松漁業組合は漁業権を売り渡していた。魚を捕って食べてもいいが商いをしないと言うことなのだ。だから背後の山に植える桃や梅の栽培に力を注いでいた時期であった。呼松の人たちを煤煙が襲い生活の方途を断ち切ったのだ。漁業権を売った経緯は漁をした魚が油臭くて売れないと岡山県庁の玄関にばらまき放置すると言う事件を起こした。工場の排水が原因だった。呼松の漁民は工場に筵旗を掲げて押し掛けた。そのような事件の後で県が仲裁に入り、漁業権放棄を条件に補償金をもらい和解するという条件を呼松漁民は飲み折れたのだった。そんな後、今度は煤煙で果実の栽培が出来なくなると言う事態になっても今度は漁民の多くはコンビナートの工場に就職していたので反対をしても工場へ押し掛けると言うことはなかった
 家人の実家は工場に葡萄畑を売った。工場に囲まれては出来いと判断したのだった。い草を植えていた県道沿いの土地に借家を建てた。工場の下請けが事務所として借りた。工場に勤める人とは別に下請けの人たちが借家を借りてくれたから農家は農地をつぶしてこぞって借家を建てた。
 その頃から公害という言葉が使われるようになっていた。公害喘息で幼い子や年寄りが亡くなっていた。
 二年前、二男が結婚し同居するために書斎を改造したおり蔵書の三分の二を処分し、公害の資料もその中に紛れ込んでいたのだ。しまったと思ったが後の祭りであった。公害のことを忘れたいという潜在的な意識があって自然に処分の方へ回したのかも知れない。その資料にはあの頃何があったかという歴史を書き留めていたものであった。公害闘争をしていた経緯もその結果も克明に記述していた。だからここに正確には書くことが出来ないが、記憶の中に沈殿しているその懲りを浮き立たせて書くことしかできないのだ。
 その頃、公害闘争は地元の人たちは殆ど参加していなかった。全国の市民運動家が何カ所かに事務所を置いて反対運動をしていた。協同病院の医師が調査をしていた位だった。
 水島の家庭では洗濯物がくすんで乾くという現象が現れていた。空から鳥が消えていた。川の魚が遡上しなくなっていた。
 家人の喫茶店の前の山は煤煙で見えなくなっていた。百メートル先の農家も昼間から姿を消すと言うことがしばしばであった。
 家人の店は各新聞記者のたまり場となり情報のやりとりをしていた。水島に公害専門の記者を常住させる新聞社も出てきていた。
 このようなものを書く機会があるとわかっていたら資料を過失でなくするのではなかったと悔やまれるのだ。「公害講座」「地域闘争」被害の現実を書いた報告書、農地を失った農民の悲痛な叫び、漁場をなくした漁民に嘆き、公害喘息で亡くなった女子中学生の告発文、公害裁判の参考資料、森永ヒ素ミルクの被害者救済の人たちとの連帯、成田、四日市、水俣、富山イタイイタイ病の被害者、阿賀野川第二水俣病被害者の人たち、その資料は完全に喪失している現在、それを元に書き表すことの出来ないことを嘆くのだ。
「電話ですよ。杉田さん」
 そういって起こされて電話に出ると、
「どこか悪いのかな」といつもの声がした。起きると痰が詰まっていて咳き込むのだった。それを聞いて言ったのだった。
「いいえ、いつものことです公害喘息です」
 こんなに早く何かあったのかと心配していると、
「俳句を投稿して審査が通り一首三万円取られたよ」
 彼は最近長いものは書かずに俳句や和歌を作っていることは知っていた。俳句の世界と言えば俳句を道楽で作る人から法外な掲載料を取ると言うことはきいて知っていたから、
「それぐらいだったら安いのではないかな」と答えた。
 彼は端正な顔立ちをしていて若い頃は多くの女性を泣かしていた。歳を取った今でもその名残はあり若かった頃の美貌は目鼻立ちに残っていて老成された好々爺になっていた。裕福な農家の生まれで田地をたくさん所有し、バイパスが通ったおり買い上げられて数億の金が舞い込んでいた。その金で農地を買ったところが青果市場や漁業市場の移転で取られて数億の金が転がり込んでいた。ある人のところには集まるものらしいと彼の幸運を祝って見ても、それはない者の恨み節の様なものだった。若い頃から文学に傾注していたが、物書きに金が入ると作品を書き枚数を数える事より入る札を数えるという生き方になり文学者としての彼は不幸な立場になっていた。そんな彼にはもう長いものは書けまいと思っていた矢先、和歌と俳句、二、三枚の随筆を書いていると彼から言われた。やはりそうなったかと思いが当たったことに納得をしたが寂しさは隠せなかった。彼もそれは本意ではあるまいと思うのだが物書きほど経済状態が立場を危うくするものはないのだ。つまり金が入ると物書きは書けなくなるのだった。それは書く必然が見あたらなくなるということなのだ。
「そんなもんか・・・」
 受話器の向こうでうなる声がした。色々と若い頃から助けて貰っている彼なのだが、金が入った時点で一念発起してその金で救済事業でもすればまだ書く材料に不自由はしなかったのにと思うが彼はしなかった。
 同じようにお世話になった山倉さんは身代を演劇に賭け財産を浪費し続けていた。正反対の二人であった。彼はいつも細い体に背広をきちんと着ていたが、それは育ちのせいかも知れなかった。家老の末裔という家柄は自由奔放に生きる、思う様に生きるという様を見せていた。それはまた杉田さんとは異なった生き方であった。
「俳人や歌詠みは今の世の中では食べられませんから、選考をして雑誌に載せて稼ぐしかないのですよ。つまり道楽でやってる人はスポンサーと言うことになります」
 冷静に言って、何もわかっていないことにあほらしさを感じこれだから金持ちはたかられる存在なのだと言い返そうとしたがやめた。
「またいくわ」と言って電話を切った。
 十二時を過ぎなくては起きないことにしているのだが、時折電話で起こされると不機嫌になる。
 窓の外を眺めるとうっとうしい空模様だった。こんな日はコンビナートの上空はどんより曇るのだ。風の強い日と、曇り空の日は煙を多く出すのだ。そういえばにおいを持った空気が鼻孔をくすぐっていた。公害認定患者になって鼻が効かなくなったという人が多かったがそんなことはなく人よりにおいをかぎ分けることが出来た。痰が絡み咳き込むのは朝方だった。
 公害監視センターの屋上には光化学スモッグが発令されると赤いアドバルンが上がった。アドバルンが上がる前に臭いと煙で関知していた。化学薬品の様な臭いが静かに満ちてくるのがわかった。百メートル前の家が見えなくなるからだ。その赤いアドバルンがいつの頃からか上がらなくなり監視センターが役目を終えたのを記憶していないのだった。たぶんコンビナートの工場が煙突を高くして煤煙を拡散しだしてからだろう。煤煙防止装置のせいではなく煤煙を遠くへとばしただけだったのだ。何十キロ先の金甲山の麓で喘息患者が多く出たのがいい例だった。今はどうか、中国の公害に対して最新の設備を提供すると言うような新聞記事を見るが日本だって今の中国と同じことをしていたのだ。地元から公害患者は少なくなったが何十キロも離れたところでどうして公害喘息がと言う問題が起こったのだ。工場排水だって浄化して魚を泳がせこんなに綺麗な水を海に流していますとパフォーマンスをして見せてもその水は高梁川の水を引いていたと言うお粗末な細工がしてあったりした。排水口は海に隠れて見えないところにあった。あの頃排水溝にコンクリートを流し込むと息巻いていた人が多くいたのだが声だけで終わっていた。水島で公害闘争をしだしてよく労働会館で集会を持ったがいつも公安が見守ってくれた。全国から活動家達が来ていたのだ。家人の店は終日いろいろと車を変えて見張る警察官の姿があった。
「大物は違うな、護衛がつい取るやないかい」
 記者の河野さんが大仰な身ぶり手振りを見せて言った。彼は水島公害の記事専属でついていて近くに下宿していた。何もない日は殆ど家人の喫茶店にいて珈琲を飲み岩波文庫を読んでいた。
「出世払いや」と言って代金は払わなかった。喫茶というところは十杯ずつ珈琲をたてるが時間が過ぎると捨てる。捨てたと思えばいいのよと家人は笑っていた。
「出世なん考えないでいい記事を書いてくださいね」と家人は言葉を投げて珈琲をたてていた。
 彼は縄文顔の小太りな体躯で小股の足早に歩く人であった。歩く姿が荒い熊に似ていた。
「新聞記者と警察とやくざに所場代払っていると思えば安いものだ。多少しゃくにさわるがな」
 とおどけて見せたものだ。少しの間だが記者をしていたので記者の思い上がりを十分知っていた。
「記事で人を殺すなよ。ペンは剣よりも強だから」そう先輩から言われたのを思い出していた。河野さんはどこで調べたのか新聞記者だったことを知っていた。誰にも喋ったことはなかったのたのだが。
 今年の気候は経験をしたことのない不順なものだ。あまり空など眺めたことはないが今年は良く眺めた。見たことのない雲が一面を覆っていた。子供の頃眺めた雲と違っていた。冷たい雨を抱えてたじろぐ雨雲、晴れようか曇ろうかと不惑する雲、太陽を拒絶しているように見える雲、それらの雲が曖昧な天気を生み垂れ下がっていた。天気予報はあまり当たらなかった。刻々と変化する天候に予報を変えるのが追いつかないくらいだった。明日は晴れるという予報で行動を決めるが雨になったりした。櫻が咲く頃までは冬から春に向かっていたのだがそれからが暖かかったり寒かったり、まるで春から冬へ戻ったのかと思える日も多かった。三寒四温と言う言葉は死語になろうとしていた。櫻の花に雪が積もっているニュースが見られた。東京では一日の温度差が十七度も違う日があった。人間の精神も体もその気候について行こうとすると疲れるだろうと思った。プロ野球も五度の寒い中行われふるえながらプレーをしていた。
 地球温暖化と言われて久しいが、むしろ寒冷化へ進んでいるのではないかと思われるのだ。幼い頃と比べたら確かに暖かい。川に氷は張らないし水たまりにも張っているのを最近見たことがない。確かに冬の気温は暖かいと感じるが、夏はもっと暑かったように思う。今と昔は生活環境も違うから比べられないかも知れないが。風通しのいい家に住んでいたから寒暖は直に皮膚に感じたのだろうが、その頃の気候は今のようではなかったと思うのだ。洗濯物がすぐに凍り、夕立でずぶ濡れになった記憶がある。今ではそんな昔を懐かしむ心はあるが。
昔は良かったという言葉が出るようになったら歳を取った証拠であると言うが。懐かしいと言うことと良かったと言うことは少しニュアンスが異なる。 あの頃はひどいものだった。大気汚染の中で生活をしていた。人間の生きる場所ではなかった。臭いのついた空気と色のついた風がながれていた。空を飛ぶ鳥の姿は見られなかった。川には魚が一匹も泳いでなかった。濃度の数値PPMではなく鳥を返せ魚を返せと叫んだ。すんだ空を、臭いのない空気を返せと叫んだ。
「電話代が払えないんです。この本をいくらでもいいから買ってもらえませんか」と今のNPOのような組織の公害阻止水島の運動家から電話がかかってきた。
「あの連中とはあまりつきあわない方がいいぞ」紹介しておいてそういったのは仲間の須山さんだった。
「金がないと女の子が体を売っているんだ。そこまでしてこの国を何処へ持って行こうとしているのかね」
 その人たちの公害闘争というものは一体何であったのだろう。人間の基本的概念を捨てても尚公害問題を重視していたとなると、そのすさまじい闘争心には頭が下がるがどこか間違っているのではないかと疑問符がつくのだった。
 体を売ってまで公害を阻止しようとする意味は何であったのだろうと。そうすることが運動家のプロであったのか、今でも考えさせられる問題だった。何冊か買わされた。本を出しすがる言葉に情が移つたのだった。
 また公害を叫んで食っている人たちもたくさんいたのだ。代議士の「この名刺を持参した人は私の昵懇の者であるのでよろしく」と書かれた名刺を公害企業に出して車代を十万単位で受け取る者がいた。その人たちは業界紙の者であった。そんな人たちが横行していた時代でもあった。戦後まだ社会秩序が整備されていなくて様々な種類のたかりが跋扈していたのだ。その人たちに比べて体を売って維持費用を調達し運動する人もいたのだ。それを社会正義と言うには悲しすぎる。人道的な立場で運動していたとしても何か矛盾を感じてしまう。何か裏がありそうだといらぬ勘ぐりをしてしまうのだ。真実に人の命の大切さと地球の未来に思いを馳せていたとしたらせこい通俗的な考え方をしていたと言うことになる。まるで神か仏の様だと手を合わせなくてはならなかったことになる。
 今でも、その人たちのことを思い考えても答えは出てこないのだ。
毎日のようにコンビナートから大砲を撃ったような音が響いてきていた。カメラとビデオカメラを積んだ車に乗ってコンビナートへ出かけるのだ。事故が起こると企業の人たちの車がヘッドライトを点けクラクションを鳴らし放しで猛烈な勢いで走っていた。その日によって違うが社旗をなびかせた新聞社の車がトップ争いをして走ってくる。一番後はいつもNHKの記者が乗ったタクシーだった。小さな事故は毎日のように起こっていた。各新聞社の記者は市役所の記者クラブにいてそこで 市の発表を原稿に起こすのだ。だから殆ど同じ記事になってしまう。特ダネを得ると言うことはほとんどなかった。家人の喫茶に記者が集まっていたのは公害闘争をしていた私がいたからだったのかも知れない。何か新しい情報を手に入れたいという淡い期待を持って。     
 石油会社が原油を流失したときにストロボを焚いて写しそのカメラを保安に取り上げられたたき壊された記者がいた。引火に神経質になっている現場でストロボを焚くと言う行為は記者の意識の低さで笑いものになることだった。工場から流れ出た原油は水島灘を真っ黒な海に変えた。対岸の丸亀、玉野の沖、小豆島まで流れ海を汚染していった。消防艇と漁民の船でオイルフェンスを張り中和剤をまいたがなかなかはかどらなかった。漁民やボランティアはぞうきんで岩にへばりついた油を拭き取るという事に懸命だった。瀬戸内海の魚は市場に出せなかった。油の臭いのする魚を買う消費者はいなかったのだ。その問題は市議会にも取り上げられ、工場側と漁民の話し合いが持たれ市が中に入って補償金で解決をさせた。
 工場までデモをしたが警察はデモに参加した一人一人を写真に撮りまくっていた。こちらが警察官をカメラに取るとひどく怒ってカメラを取りフイルムを抜いた。肖像権が認められているのは警察官だけでデモ隊はないことを知った。
 公害は終わっていない。全国の公害の被災者が元気にならない限り終わっていない。中国や開発途上国の公害に手をこまねいて見ている無責任は許されない。多くの被災者を出した日本はそれらの国が被災者を出さないようにアドバイスをする事で日本の公害患者の許しをえなければならない。賠償をしているからいいと言う問題ではない。政府も企業も過ちを償う気持ちがあるなら二度と公害患者を出してはならぬと言うことを肝に銘じるべきなのだ。
 四十年間つぶれることもなく細々と営む喫茶店がここにある。そこには公害を語り継ぐ人がいる。

記憶の薄れいく中で

 風は雲の働きで起こるように、波が風によって起こるように、人間は自らの意志をもって起こし行動する。そのことを知ったのはたくさんの時が過ぎてからだ。
 
 この町にきてからもう四十年になろうとしている。結婚してから家人のふるさとへ来たのだ。家人は交通事故の後遺症で雨の降る前は額に十円玉くらいの赤い斑点が出来て頭痛がした。それを心配した義父母が隣に土地を用意しそこに家を建てろと言った。家人の慰謝料で家を建て一部を喫茶店にした。県道沿いのその喫茶店は四十年が過ぎたいまも続いている。お好み焼き、画廊、ラーメン、トンカツ、カラオケ、と喫茶をやりながら出し物を変えて続いている。今ではコミュニティハウスとしてお年寄りの憩いの場となっている。
 この町に来た頃は南の海に面したところにあるコンビナートの空は何十本もの高い煙突から五十メートル以上の炎が真っ赤に吹き上がり夜を昼間に変えていた。そこでは夜でも明かりがなくても新聞が読めたという。そんな環境を地元の人が文句も言わず黙っていたのは賠償金を貰っていたからだった。だが、少し離れた我が家からは南の空が燃えているその明かりが窓を染めて眠られない日が続いた。まるで火事場の隣にいる様な錯覚に陥るのだった。
 家人の実家は農業を営み、葡萄にい草に麦に米を栽培していた。コンビナートの煤煙に最初にやられたのはい草であった。煤煙が朝露となってい草を覆い先枯れをもたらした。人間を喘息へ導くほどの公害なのだからい草など一発でやられた。その頃、工場に隣接していた呼松町では梅に桃が育たなくなったという被害が出た。煤煙を海風が運んだのだ。呼松漁業組合は漁業権を売り渡していた。魚を捕って食べてもいいが商いをしないと言うことなのだ。だから背後の山に植える桃や梅の栽培に力を注いでいた時期であった。呼松の人たちを煤煙が襲い生活の方途を断ち切ったのだ。漁業権を売った経緯は漁をした魚が油臭くて売れないと岡山県庁の玄関にばらまき放置すると言う事件を起こした。工場の排水が原因だった。呼松の漁民は工場に筵旗を掲げて押し掛けた。そのような事件の後で県が仲裁に入り、漁業権放棄を条件に補償金をもらい和解するという条件を呼松漁民は飲み折れたのだった。そんな後、今度は煤煙で果実の栽培が出来なくなると言う事態になっても今度は漁民の多くはコンビナートの工場に就職していたので反対をしても工場へ押し掛けると言うことはなかった
 家人の実家は工場に葡萄畑を売った。工場に囲まれては出来いと判断したのだった。い草を植えていた県道沿いの土地に借家を建てた。工場の下請けが事務所として借りた。工場に勤める人とは別に下請けの人たちが借家を借りてくれたから農家は農地をつぶしてこぞって借家を建てた。
 その頃から公害という言葉が使われるようになっていた。公害喘息で幼い子や年寄りが亡くなっていた。
 二年前、二男が結婚し同居するために書斎を改造したおり蔵書の三分の二を処分し、公害の資料もその中に紛れ込んでいたのだ。しまったと思ったが後の祭りであった。公害のことを忘れたいという潜在的な意識があって自然に処分の方へ回したのかも知れない。その資料にはあの頃何があったかという歴史を書き留めていたものであった。公害闘争をしていた経緯もその結果も克明に記述していた。だからここに正確には書くことが出来ないが、記憶の中に沈殿しているその懲りを浮き立たせて書くことしかできないのだ。
 その頃、公害闘争は地元の人たちは殆ど参加していなかった。全国の市民運動家が何カ所かに事務所を置いて反対運動をしていた。協同病院の医師が調査をしていた位だった。
 水島の家庭では洗濯物がくすんで乾くという現象が現れていた。空から鳥が消えていた。川の魚が遡上しなくなっていた。
 家人の喫茶店の前の山は煤煙で見えなくなっていた。百メートル先の農家も昼間から姿を消すと言うことがしばしばであった。
 家人の店は各新聞記者のたまり場となり情報のやりとりをしていた。水島に公害専門の記者を常住させる新聞社も出てきていた。
 このようなものを書く機会があるとわかっていたら資料を過失でなくするのではなかったと悔やまれるのだ。「公害講座」「地域闘争」被害の現実を書いた報告書、農地を失った農民の悲痛な叫び、漁場をなくした漁民に嘆き、公害喘息で亡くなった女子中学生の告発文、公害裁判の参考資料、森永ヒ素ミルクの被害者救済の人たちとの連帯、成田、四日市、水俣、富山イタイイタイ病の被害者、阿賀野川第二水俣病被害者の人たち、その資料は完全に喪失している現在、それを元に書き表すことの出来ないことを嘆くのだ。
「電話ですよ。杉田さん」
 そういって起こされて電話に出ると、
「どこか悪いのかな」といつもの声がした。起きると痰が詰まっていて咳き込むのだった。それを聞いて言ったのだった。
「いいえ、いつものことです公害喘息です」
 こんなに早く何かあったのかと心配していると、
「俳句を投稿して審査が通り一首三万円取られたよ」
 彼は最近長いものは書かずに俳句や和歌を作っていることは知っていた。俳句の世界と言えば俳句を道楽で作る人から法外な掲載料を取ると言うことはきいて知っていたから、
「それぐらいだったら安いのではないかな」と答えた。
 彼は端正な顔立ちをしていて若い頃は多くの女性を泣かしていた。歳を取った今でもその名残はあり若かった頃の美貌は目鼻立ちに残っていて老成された好々爺になっていた。裕福な農家の生まれで田地をたくさん所有し、バイパスが通ったおり買い上げられて数億の金が舞い込んでいた。その金で農地を買ったところが青果市場や漁業市場の移転で取られて数億の金が転がり込んでいた。ある人のところには集まるものらしいと彼の幸運を祝って見ても、それはない者の恨み節の様なものだった。若い頃から文学に傾注していたが、物書きに金が入ると作品を書き枚数を数える事より入る札を数えるという生き方になり文学者としての彼は不幸な立場になっていた。そんな彼にはもう長いものは書けまいと思っていた矢先、和歌と俳句、二、三枚の随筆を書いていると彼から言われた。やはりそうなったかと思いが当たったことに納得をしたが寂しさは隠せなかった。彼もそれは本意ではあるまいと思うのだが物書きほど経済状態が立場を危うくするものはないのだ。つまり金が入ると物書きは書けなくなるのだった。それは書く必然が見あたらなくなるということなのだ。
「そんなもんか・・・」
 受話器の向こうでうなる声がした。色々と若い頃から助けて貰っている彼なのだが、金が入った時点で一念発起してその金で救済事業でもすればまだ書く材料に不自由はしなかったのにと思うが彼はしなかった。
 同じようにお世話になった山倉さんは身代を演劇に賭け財産を浪費し続けていた。正反対の二人であった。彼はいつも細い体に背広をきちんと着ていたが、それは育ちのせいかも知れなかった。家老の末裔という家柄は自由奔放に生きる、思う様に生きるという様を見せていた。それはまた杉田さんとは異なった生き方であった。
「俳人や歌詠みは今の世の中では食べられませんから、選考をして雑誌に載せて稼ぐしかないのですよ。つまり道楽でやってる人はスポンサーと言うことになります」
 冷静に言って、何もわかっていないことにあほらしさを感じこれだから金持ちはたかられる存在なのだと言い返そうとしたがやめた。
「またいくわ」と言って電話を切った。
 十二時を過ぎなくては起きないことにしているのだが、時折電話で起こされると不機嫌になる。
 窓の外を眺めるとうっとうしい空模様だった。こんな日はコンビナートの上空はどんより曇るのだ。風の強い日と、曇り空の日は煙を多く出すのだ。そういえばにおいを持った空気が鼻孔をくすぐっていた。公害認定患者になって鼻が効かなくなったという人が多かったがそんなことはなく人よりにおいをかぎ分けることが出来た。痰が絡み咳き込むのは朝方だった。
 公害監視センターの屋上には光化学スモッグが発令されると赤いアドバルンが上がった。アドバルンが上がる前に臭いと煙で関知していた。化学薬品の様な臭いが静かに満ちてくるのがわかった。百メートル前の家が見えなくなるからだ。その赤いアドバルンがいつの頃からか上がらなくなり監視センターが役目を終えたのを記憶していないのだった。たぶんコンビナートの工場が煙突を高くして煤煙を拡散しだしてからだろう。煤煙防止装置のせいではなく煤煙を遠くへとばしただけだったのだ。何十キロ先の金甲山の麓で喘息患者が多く出たのがいい例だった。今はどうか、中国の公害に対して最新の設備を提供すると言うような新聞記事を見るが日本だって今の中国と同じことをしていたのだ。地元から公害患者は少なくなったが何十キロも離れたところでどうして公害喘息がと言う問題が起こったのだ。工場排水だって浄化して魚を泳がせこんなに綺麗な水を海に流していますとパフォーマンスをして見せてもその水は高梁川の水を引いていたと言うお粗末な細工がしてあったりした。排水口は海に隠れて見えないところにあった。あの頃排水溝にコンクリートを流し込むと息巻いていた人が多くいたのだが声だけで終わっていた。水島で公害闘争をしだしてよく労働会館で集会を持ったがいつも公安が見守ってくれた。全国から活動家達が来ていたのだ。家人の店は終日いろいろと車を変えて見張る警察官の姿があった。
「大物は違うな、護衛がつい取るやないかい」
 記者の河野さんが大仰な身ぶり手振りを見せて言った。彼は水島公害の記事専属でついていて近くに下宿していた。何もない日は殆ど家人の喫茶店にいて珈琲を飲み岩波文庫を読んでいた。
「出世払いや」と言って代金は払わなかった。喫茶というところは十杯ずつ珈琲をたてるが時間が過ぎると捨てる。捨てたと思えばいいのよと家人は笑っていた。
「出世なん考えないでいい記事を書いてくださいね」と家人は言葉を投げて珈琲をたてていた。
 彼は縄文顔の小太りな体躯で小股の足早に歩く人であった。歩く姿が荒い熊に似ていた。
「新聞記者と警察とやくざに所場代払っていると思えば安いものだ。多少しゃくにさわるがな」
 とおどけて見せたものだ。少しの間だが記者をしていたので記者の思い上がりを十分知っていた。
「記事で人を殺すなよ。ペンは剣よりも強だから」そう先輩から言われたのを思い出していた。河野さんはどこで調べたのか新聞記者だったことを知っていた。誰にも喋ったことはなかったのたのだが。
 今年の気候は経験をしたことのない不順なものだ。あまり空など眺めたことはないが今年は良く眺めた。見たことのない雲が一面を覆っていた。子供の頃眺めた雲と違っていた。冷たい雨を抱えてたじろぐ雨雲、晴れようか曇ろうかと不惑する雲、太陽を拒絶しているように見える雲、それらの雲が曖昧な天気を生み垂れ下がっていた。天気予報はあまり当たらなかった。刻々と変化する天候に予報を変えるのが追いつかないくらいだった。明日は晴れるという予報で行動を決めるが雨になったりした。櫻が咲く頃までは冬から春に向かっていたのだがそれからが暖かかったり寒かったり、まるで春から冬へ戻ったのかと思える日も多かった。三寒四温と言う言葉は死語になろうとしていた。櫻の花に雪が積もっているニュースが見られた。東京では一日の温度差が十七度も違う日があった。人間の精神も体もその気候について行こうとすると疲れるだろうと思った。プロ野球も五度の寒い中行われふるえながらプレーをしていた。
 地球温暖化と言われて久しいが、むしろ寒冷化へ進んでいるのではないかと思われるのだ。幼い頃と比べたら確かに暖かい。川に氷は張らないし水たまりにも張っているのを最近見たことがない。確かに冬の気温は暖かいと感じるが、夏はもっと暑かったように思う。今と昔は生活環境も違うから比べられないかも知れないが。風通しのいい家に住んでいたから寒暖は直に皮膚に感じたのだろうが、その頃の気候は今のようではなかったと思うのだ。洗濯物がすぐに凍り、夕立でずぶ濡れになった記憶がある。今ではそんな昔を懐かしむ心はあるが。
昔は良かったという言葉が出るようになったら歳を取った証拠であると言うが。懐かしいと言うことと良かったと言うことは少しニュアンスが異なる。 あの頃はひどいものだった。大気汚染の中で生活をしていた。人間の生きる場所ではなかった。臭いのついた空気と色のついた風がながれていた。空を飛ぶ鳥の姿は見られなかった。川には魚が一匹も泳いでなかった。濃度の数値PPMではなく鳥を返せ魚を返せと叫んだ。すんだ空を、臭いのない空気を返せと叫んだ。
「電話代が払えないんです。この本をいくらでもいいから買ってもらえませんか」と今のNPOのような組織の公害阻止水島の運動家から電話がかかってきた。
「あの連中とはあまりつきあわない方がいいぞ」紹介しておいてそういったのは仲間の須山さんだった。
「金がないと女の子が体を売っているんだ。そこまでしてこの国を何処へ持って行こうとしているのかね」
 その人たちの公害闘争というものは一体何であったのだろう。人間の基本的概念を捨てても尚公害問題を重視していたとなると、そのすさまじい闘争心には頭が下がるがどこか間違っているのではないかと疑問符がつくのだった。
 体を売ってまで公害を阻止しようとする意味は何であったのだろうと。そうすることが運動家のプロであったのか、今でも考えさせられる問題だった。何冊か買わされた。本を出しすがる言葉に情が移つたのだった。
 また公害を叫んで食っている人たちもたくさんいたのだ。代議士の「この名刺を持参した人は私の昵懇の者であるのでよろしく」と書かれた名刺を公害企業に出して車代を十万単位で受け取る者がいた。その人たちは業界紙の者であった。そんな人たちが横行していた時代でもあった。戦後まだ社会秩序が整備されていなくて様々な種類のたかりが跋扈していたのだ。その人たちに比べて体を売って維持費用を調達し運動する人もいたのだ。それを社会正義と言うには悲しすぎる。人道的な立場で運動していたとしても何か矛盾を感じてしまう。何か裏がありそうだといらぬ勘ぐりをしてしまうのだ。真実に人の命の大切さと地球の未来に思いを馳せていたとしたらせこい通俗的な考え方をしていたと言うことになる。まるで神か仏の様だと手を合わせなくてはならなかったことになる。
 今でも、その人たちのことを思い考えても答えは出てこないのだ。
毎日のようにコンビナートから大砲を撃ったような音が響いてきていた。カメラとビデオカメラを積んだ車に乗ってコンビナートへ出かけるのだ。事故が起こると企業の人たちの車がヘッドライトを点けクラクションを鳴らし放しで猛烈な勢いで走っていた。その日によって違うが社旗をなびかせた新聞社の車がトップ争いをして走ってくる。一番後はいつもNHKの記者が乗ったタクシーだった。小さな事故は毎日のように起こっていた。各新聞社の記者は市役所の記者クラブにいてそこで 市の発表を原稿に起こすのだ。だから殆ど同じ記事になってしまう。特ダネを得ると言うことはほとんどなかった。家人の喫茶に記者が集まっていたのは公害闘争をしていた私がいたからだったのかも知れない。何か新しい情報を手に入れたいという淡い期待を持って。     
 石油会社が原油を流失したときにストロボを焚いて写しそのカメラを保安に取り上げられたたき壊された記者がいた。引火に神経質になっている現場でストロボを焚くと言う行為は記者の意識の低さで笑いものになることだった。工場から流れ出た原油は水島灘を真っ黒な海に変えた。対岸の丸亀、玉野の沖、小豆島まで流れ海を汚染していった。消防艇と漁民の船でオイルフェンスを張り中和剤をまいたがなかなかはかどらなかった。漁民やボランティアはぞうきんで岩にへばりついた油を拭き取るという事に懸命だった。瀬戸内海の魚は市場に出せなかった。油の臭いのする魚を買う消費者はいなかったのだ。その問題は市議会にも取り上げられ、工場側と漁民の話し合いが持たれ市が中に入って補償金で解決をさせた。
 工場までデモをしたが警察はデモに参加した一人一人を写真に撮りまくっていた。こちらが警察官をカメラに取るとひどく怒ってカメラを取りフイルムを抜いた。肖像権が認められているのは警察官だけでデモ隊はないことを知った。
 公害は終わっていない。全国の公害の被災者が元気にならない限り終わっていない。中国や開発途上国の公害に手をこまねいて見ている無責任は許されない。多くの被災者を出した日本はそれらの国が被災者を出さないようにアドバイスをする事で日本の公害患者の許しをえなければならない。賠償をしているからいいと言う問題ではない。政府も企業も過ちを償う気持ちがあるなら二度と公害患者を出してはならぬと言うことを肝に銘じるべきなのだ。
 四十年間つぶれることもなく細々と営む喫茶店がここにある。そこには公害を語り継ぐ人がいる。



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